職業野球の幕開け
はじめに
元々アマチュア野球のみ存在していた日本において、プロ野球が制度化されるということは、
従来の野球制度と異なる点、すなわち「経済的な秩序が介入してきた」ということが言える。
この観点からプロ野球制度は、経済的な秩序によって計画的・意図的に野球ゲームを道具化したものであり、
そこでは観衆が消費者化され、プレイヤーが生産者化されたとも考えられる。
よって自然成長的なアマチュア野球制度に対し、プロ野球は制定的な制度として捉えることができ、
またプロ野球が企業の営利目的のための手段として使われるという事態も起こったのだ。
そこでまず第1章では、大正時代後期に現れた3つのそれぞれ異なった理念に基づいて成立したプロ野球団、
日本運動協会、天勝野球団、大毎野球団について検討していく。
次に第2章では、プロ野球成立に対しての賛成意見と反対意見を検討していく。
前者に関しては当時発行されていた2つの野球雑誌『野球界』と『運動界』を、
後者に関しては飛田穂州が朝日新聞に掲載した記事や雑誌『ファン』を史料として扱った。
第3章では、プロ野球機構としての完成をみた日本職業野球連盟の結成に作用した力を、
野球雑誌等に意見を載せ、連盟結成に関わった安部磯雄、浅沼譽夫、三宅大輔、市岡忠男らの理念を通じて検討していく。
そしてこの連盟に含まれる球団はすべて企業と密接な関わりを持っていた。
例えば新聞社は、スポーツに集まる人々の話題・関心に注目し、
それを記事にすることによって自社の宣伝を図りながら販売部数を伸ばそうとしたわけだが、
その企図を社会経済状況が後押しすることになった。
大正から昭和初期、労働力が第一次産業から第二次、第三次産業へと移行したことによって、
大都市に人口が集中するようになり、また産業化、都市化の進行に伴って、
人々の実質賃金を指標にした生活水準も上昇した。
これは人々の購買力・消費力の向上を意味するもので、新聞購買者層の拡大や、
娯楽としてのスポーツへの関心を高める役割を果たしたといえるだろう。
そして特にプロ野球に介入した顕著な例が読売新聞社だった。
また鉄道会社も、産業化、都市化の影響を受けて、各種施設の建設や催し物を開催し、
その場所へ観衆を輸送することによって利益を得ていた。
こうして人気のある野球ゲームを開催し、その施設である野球場の提供することによる野球制度への介入は、
電鉄会社にとって利益の追求とその宣伝効果をあげる手段として機能していく。
この電鉄会社のプロ野球介入については、関西の阪神電鉄、阪急電鉄の争いが興味をそそられる。
このように各々の企業がどのような意図でプロ野球制度に組み込まれていくことになったのかを、
第4章と第5章で新聞、社史等に載せられた各会社の代表者の意見を中心としながら検討していくことにする。
現在、プロ野球が日本の国民的スポーツとして確固たる地位を築いているという実状をふまえて、
本研究では、大正後期から昭和初期にかけてプロ化への道を切り開いた
団体及び野球関係者の理念をいくつか検証することによって、プロ野球の成立形態とその社会的条件を明らかにし、
なぜその時期に、その場所でプロ野球が成立し得たのかを解明していきたい。
1 プロ化への道
@ 実現に至らなかった構想
早慶戦が野球界の主流であった時期以降、次第に醸成されてきた野球のゲームに対する経済的理念は、
早稲田大学野球部部長の安部磯雄を中心的存在として、ゲームの金銭化、すなわち入場料徴収という
野球の興業化への第一段階を歩み始めていた。
例えば交遊関係が広く、早慶のOB達とももとより交際があった一高OBの中野武二は、
その構想は必ずしもはっきりしたプロ野球ではなかったようだが、
大正八年末に「東京野球倶楽部」と称する野球チームを設立しようとしている。
そのために、総坪数1万2千余り、約3万人を収容することができるような大グラウンドを東京・芝浦に建設しようとした。
このグランドは、大正十年九月一日に完成する予定だったが、
戦後恐慌が原因となって、出資者が資金を供給できずに建設中止に至り、チーム設立の計画自体も潰れてしまった。
次いで大正十年に、日本大野球養成所の事業が、原口海軍少将が中心となって計画された。
原口少将はアメリカから教師を招聘して、百名の生徒を収容し、職業野球団をつくる下地として選手を養成する計画を立てていたようだ。
野球の社会と直接関係のない人々がこのような計画を発表したことは、野球界にとって大きな変革となるはずだった。
しかし彼の最大の目的は、野球を金儲けの手段として扱うことであり、
野球界の発展や野球制度の確立といった高尚な理念はなかったようだ。
結局この計画も実現することはなく、仮に実現していたとしても長続きはしなかったかもしれない。
その他にも、牧野譲を中心として横浜に、あるいは関西宝塚にも、職業野球団組織の計画があった。
しかしこれらのプロ野球構想も、野球界発展のための積極的な動機をもっていたとはいえず、
また確固たる経済的理念に支えられた現実的な計画や方法でもなかったようだ。
以上の例を観てみると、この時期に実際にプロ野球チームとして設立することができた日本運動協会における関係者の理念を分析していくことは、
プロ野球制度成立のための条件を捉える上で意義あることと考えられる。
またこれとは異なった理念に基づいて設立されたプロ野球チーム、天勝野球団、大毎野球団についてもその性格を分析することによって、
プロ野球制度成立の過渡期における状況をより明確にすることができるだろう。
A 日本運動協会チーム
当時、アマチュア野球界をリードしていた早稲田大学の出身者、河野安通志、橋戸信、押川清らを中心にして、
合資会社日本運動協会が結成された。
彼らがこの運動協会を設立しようとした目的は、
東京市民が要求する理想の競技場を提供することによって運動競技をあらゆる階級や年齢の人々に広く普及させることにあった。
またプロ野球経営だけでなく、様々な競技、競技場の建設、運動用具の製造販売なども行おうとする壮大な計画を立てていたが、
実際に手がけることができたのは、芝浦協会チームというプロ野球団の創設をはじめごくわずかだった。
しかし野球技のみの普及に向かって全力を注ぐのではなく、運動競技を国民一般に理解させて、国民の体力改善を図り、
国家社会のために奉仕するという目的は当初と変わりがないものといえよう。
その「起業予算」の内訳を見てみると、資本金9万円のうち約7万5千5百円がグラウンドを造るための借地権の費用に充てられ、
さらに外堀と門に1千5百円、スタンドと固定ネットに3千5百円が見積もられ、実に総額の九割近くをグラウンド関連に費やしている。
このことから河野、橋戸、押川等は、アメリカのメジャーリーグの経営状況を模範として、
まず本拠地となる球場づくりから始めたといえるのではなかろうか。
戦後のプロ野球においても、自前の球場を持たない球団があったことを考えると、
彼らがこのときいかに明確な理念をもってプロ野球経営に乗り出したかが分かる。
また大正十年に計画された翌年度の協会チーム完成後予算の内訳には、
プロ野球チーム経営にあたっての収入と支出を詳細に示しており、
このことからも彼らが、野球界発展のために真剣かつ綿密な計画を立てていたことがうかがえる。
そしてこの財政基盤については、会員の入会金と会費をもとに形成され運用する形を取っている。
つまり会員は、プロ選手であるにも関わらず、自費で参加することが要求されたのだ。
一方このプロ野球団設立の趣旨は、アメリカのメジャーリーグと対等に試合することを目標として技術を向上させることであり、
その目標達成のためには、学生野球の範囲で今まで以上の発展を望むことは少々無理があり、
大学チーム以上の技術や人格を身につけることが必要と考えられたようだ。
つまりプロ野球団が、これからの野球界のリーダー的存在となるべきとの考えがそこからうかがえる。
そのため選手の募集に関しては、学力・健康・人格・技術といったところを重視している。
だがそうした高い理想に対して、カネを卑しむ伝統的風土、
すなわち金銭は人間の値打ちの尺度としては最低であるという現在の日本においてもよくみられる考え方から、
プロ野球は世間からいわれなき軽蔑を受けることになった。
ただしその一方で、大正十一年六月の第一回朝鮮、満州遠征において人気を博したこと、
あるいは同年八月、軽井沢での早稲田大学との合同練習で、
部長の安部磯雄から学生チームの模範としても恥ずかしくない選手たちとの絶賛をうけ、
早大が日本運動協会チームの国内における初の試合相手となり、
その試合で日本随一といわれた早稲田と互角に渡り合ったことで、協会チームの名声が高まったことなど、
必ずしも世間がプロ化に対して反対者ばかりというわけでもなく、
またその後も好成績を残し続けることができたので、
野球のチームとしてはある程度の成功を収めることができたと言えるのではなかろうか。
しかし日本運動協会は、大正十二年の関東大震災によって思わぬ被害を受けることになった。
皮肉にも協会の建造物やグラウンドが無事であったために、多くの被災者たちの避難場所として強制使用されることになったのだ。
内務省と東京市による土地の占有はしばらく続けられ、協会の選手たちは練習の場所を奪われることを余儀なくされた。
しかもスタンドは壊され、バラックが建てられたために、グラウンドとしての機能を果たすことが可能になるためにかかる時間は、
計り知れないものとなった。こうして経営面で協会チームは損失に損失を重ね 、一時解散となった。
そして翌年京阪神急行電鉄株式会社社長小林一三の手により宝塚協会として再出発するものの、再び昭和四年に解散となった。
その理由は、財界の不況による財政難がまず第一に挙げられ、その他にも電鉄リーグ構想の失敗、
一流チームに勝ち越すだけの戦力がなかったことなどが考えられるようだ。
これらの事実から、震災という予期せぬ災害があったものの、結局プロ野球が成立するためには、
それを支える確固たる財政基盤の確立と、複数のチームによる定期戦が必要であることを示したといえる。
B 天勝野球団
大正十年二月に、日本運動協会とは異なる性格をもったプロチーム、天勝野球団が結成された。
慶應大学の名投手であり、後に大毎野球団のエースとして活躍した小野三千麿のコーチの下練習が開始され、
当時の六大学における有力選手を多数集めた。そして満州・朝鮮において天勝一座の興業と共に野球の試合を披露している。
このチームは奇術の松旭斎天勝一座付のものであり、有名選手を集めることによって、
各地の興業先でその宣伝と人気を高めるために試合を行っていた。
これはまさに野球を経済目的の手段として利用した典型的な例ということができる。
またこのような宣伝のための野球チームは、この時期盛んに結成されていたようだ。
しかしこのような一座の経済的理念に対して、実際にプレーをしていた選手の意識は少し異なったものであった。
野球部員の一人である鶴芳夫は、野球チームは広告本意のものでなく、商売と野球の試合は別問題という見解を示している。
また主将を務めた鈴木関太郎は、自分たちが学生チームと少しも変わらない精神を持っていることを主張している。
ただしそれに対して、彼らが具体的に野球界の精神的な柱となるような努力をしたという証拠は何もあがってこない。
また世間の見方も厳しく、例えば大正十二年八月三十日に行われた日本運動協会チームとの日本初のプロ同士の試合に関して、
それまで好成績を残し続けた中でたった一回の敗戦にも関わらず、練習をしないがために粘りも底力もないとの批評を下されるに至った。
これらのことから、天勝野球団に関係していた個々の人間には、崇高な信念をもった者がいたかもしれないが、
全体的には日本運動協会とは異なり、野球を利用して宣伝効果を狙うという目的をもった天勝一座に手段化されたプロチームだったと言える。
C 大毎(大阪毎日)野球団
大毎野球団は、大正九年三月二十八日、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社との社員懇親会の折に大毎が速成チームを編成したのを契機に、
五月に本格的なチーム組織を編成し、それが大毎野球団として名乗りをあげることになった。
そして九月には大阪毎日新聞社から実際に野球団として公認される運びとなる。
大毎は、毎年のように各大学あるいは先に述べた天勝野球団などから有力選手を補強し続けて、結成以来好成績を残し続けた。
このチームは、運動の奨励や宣伝をするというよりも、新聞社自身が大正十四年の米国遠征に対し
「大毎の海外宣伝に大きな効果を残した」と述べているように新聞宣伝のためのものだった。
そのことは、昭和四年に三月、昭和に入ってからの成績が不振で新聞宣伝のためにチームを持つことを再考する必要があったときに、
結局解散に至ってしまったことからもうかがえる。
しかし天勝野球団と少しだけ異なっていたのは、選手には社内において一定の仕事が与えられていて、
「セミプロ」チームと呼ばれていた点だ。大正十四年の米国遠征においても、単なる野球修行ではなく、
記者としての見学と修養という目的があったようだ。また監督だった木造龍蔵は、
大正十二年の極東選手権大会野球競技の代表をめぐって、「プロの大毎に参加資格があるのか」という論議に対し、
まず第一に団員が普段は職務を行っていること、第二に野球の手当は特別に一切受けていないこと、
第三に入場料の徴収は学校チームでも行っていることをあげて、大毎野球団がプロチームである理由は皆無との見解を示している。
以上のことから、大毎野球団が高尚な理想を掲げてはいたことは分かるが、
実質は自社の利益のために野球を利用した典型的な例といえる。
したがって大毎野球団も天勝野球団と同じような経済的理念に基づいて、野球を手段化したといえよう。
ただ完全なプロチームと見なされないようにする意図がそこには見受けられて、
まるで現在のノンプロ野球団と同じような性格をこの当時既に有していたことは注目すべき点だ。
D まとめ
以上、この期において野球のプロ化に動いた主な団体には、三者三様のタイプがあった。
まず、河野、押川、橋戸ら早大出身者は、師の安部磯雄の野球信念であるフェアプレイ、スポーツマンシップの向上や発展への願望と、
入場料徴収は許可するという一歩進んだ経済的理念を背景に、野球に関する専門チームを作ろうとした。
それはまたアメリカのメジャーリーグにも対抗していけるような野球技術の発展を企図したものでもあったともいえる。
つまりこれまでの学生野球中心の制度では、その発展に限界があるため、野球関係者が中心となりながらも、
国民全般の理解と資金を得て、理想的なプロ野球制度を成立させようとしたのだ。
そして大正十年に生まれたのが日本運動協会チームだ。すなわち日本運動協会チームは、企業の介入を許さず、
野球制度内部の健全な発展という理想を実現するためにプロ化を推進した自然成長的な野球制度内改革派といえよう。
ところが、同じ時期に結成された天勝野球団は、それに関わった野球関係者のプロ野球に対する理念が曖昧であり、
日本運動協会チームとの直接対決では、大学出身の有名選手をそろえているにもかかわらず、練習不足によって敗れたと酷評された。
結局このチームの結成に至った要因は、野球を天勝一座の宣伝に利用することで、自らの人気を高め、
収入を上げようとする経済的理念しかなかった。したがって天勝野球団は、企業の介入を完全に受け入れ、
その手段化を容認し、利用されることによってプロ化を推進した企業主導の野球制度外変革派といえよう。
また大阪毎日新聞社専属の野球チーム、大毎野球団も、毎年大学出身の有名選手を補強し、
実業団最強チームとなって毎日新聞の宣伝と販売に貢献した。
しかしそこでの表面上の理念は、あくまでチームの役割が毎日新聞の奨励する運動精神の伝播と高揚にあり、
よって選手も野球のプロではなく、新聞関係の社内業務に携わりながらその余技として野球を行うという、
アマチュア制度にこだわっている。よって野球を経済目的のために利用しようとする理念は、天勝野球団と変わらないが、
選手がアマチュアであることに固執することにより、世間のプロに対する偏見から逃れようとする意図が見受けられる。
したがって大毎野球団は、企業の介入を完全に受け入れているものの、アマチュアであることに固執する、
企業主導の野球制度外保守派といえよう。
2 スポーツ雑誌に見られるプロ化に対する考え方
@ 『野球界』
『野球界』は明治四十四年、主幹横井鶴城を中心に創刊された早稲田系の雑誌だ。
それだけにプロ化の推進に対しては積極的な対応を見せている。
大正九年には「職業野球團組織の方策及現今の球界に對する意見」と題した特集を組み、
13名にアンケートを実施している。その結果、全く職業野球に関心を示さなかったのは旧一高選手長與又郎のみで、
他は簡単な問題でないとしながらも職業野球団に対して好意的だ。全体的な意見としては、
資本の充実と選手の技術向上が条件としてあげられ、そのためにには会社組織の結成と球場の確保が必要であることが述べられている。
このことから経済的理念を背景にしてプロ野球団を具体的に結成しようとする考え方は、この頃には確立していたことがうかがえる。
大正十年にわが国初のプロ野球チーム、日本運動協会が誕生したことについて、主幹横井鶴城は、
野球がわが国の国民的ゲームといわれるほどに普及しているとの認識から、職業野球団が生まれることは当然であり、
その時期が遅すぎたくらいであるとの意見を述べている。また野球技術の真の発達及び普及は、プロ選手でなければ達成できないことや、
野球を名実ともに国民的ゲームに導きうることを述べている。これに関連して野球入場料を徴収することについては、
グラウンド等の整備するためであり、決してプレイヤーの手に渡るものではないので、
球界の健全な発達が導くためには必要不可欠としている。同様に福田峨城は、日本運動協会設立に慶賀の意を表し、
運動界全体の精神を高める役割を果たすと述べている。
日本運動協会チームが宝塚協会チームとなった大正十三年には、経済面の不安がなくなったことを喜び、
いままで対戦のなかった慶應、明治、法政の三大学と対戦が決まった折には、職業野球がついに東都球界の完全な認知を受けたとして、
その試合結果を報じている。これらのことからも『野球界』がいかにプロ野球制度の成立に期待しているかが分かる。
以上、『野球界』は徹底して野球制度のより一層の発展のためにはプロ野球チームを結成し、これを育てることが重要と説いている。
そして精神野球の発達を望み、入場料徴収を容認することは、
日本の社会に浸透している金銭拒否の理念から一歩進んだ考え方をしているといえる。
したがって『野球界』の理念は先に述べた日本運動協会のそれと酷似しており、
野球制度内改革派の一つとしてプロ化を促進していたといえよう。
A 『運動界』
『運動界』は大正九年、主幹を太田四州とし、早稲田系の野球関係者を中心に創刊された雑誌だ。
したがって先の『野球界』同様、プロ野球の推進に対して積極的な考え方をしている。
『運動界』は、日本運動協会チーム(宝塚協会チーム)の戦記を非常に多く掲載し、好意的な姿勢を示している。
例えば大正十一年九月九日、満州遠征を終えた協会チームが、当時最強と言われた早稲田大学との対戦し、
延長十回0対1で惜敗したものの、その全力を尽くした戦いぶりに太田は賛辞の言葉を贈っている。
さらに協会チームの成立を懸念していた人々が、この結果により安心して前途を見守っていくことができ、
また選手たちも野球道に邁進できるという見解を示している。このことから『運動界』がプロ野球チームに対して理解を示し、
プロ化推進の理念を有していたことがうかがえる。また同じ記事において、協会チームの練習態度が非常に立派なもので、
安部磯雄早大野球部長も感嘆したとの話も掲載している。さらにこのようなプロ野球に対する考え方は、
大正十三年の協会チーム解散に及びより明確になり、日本運動協会という会社の主義精神が、
営利ではなく理想的専門選手の養成にあるとはっきり述べている。
また入場料を徴収することは、野球を発達させるために最低限必要なことであり、
ゲームの金銭化が図られなくてはならないという理念は、『運動界』において確立された信条となっている。
例えば西尾守一は、入場料の徴収が野球に限らず、どのような運動倶楽部においても、
場所や設備を完全なものにするためには不可欠であり、その際の金銭は競技運動の尊厳を傷つけるものではないとの見解を示し、
さらに伊藤十郎も入場料による見物者の負担が必要であり、それが倶楽部の金銭収入を目的とするものではないと述べている。
その他にも弘田親輔が、「運動協會軍を評す 今後の發達を期するには!」と題して、
協会チームの実力、早大と協会チームの性格の相似とその理由、特徴や欠点について分析している。
その内容は、協会チームが今後さらに技量を高めるためにはどうしたらよいのか、という意識に基づいていると考えられ、
その論旨は、協会チームの今後の発達を願っているものだ。
また協会チームが初めて東京五大学全てのチームと対戦した折には、『野球界』と同様、
協会チームがプロとして世間に認められるうえにおいて非常に意義あることと受け止められている。
さらに宝塚協会チームへの移行に際しても、「幸ある移植 寶塚に行く協會チームに送る」と題して、
プロとしての精神野球のより一層の発展を期待していることがうかがえる。
これらのことから、『運動界』は『野球界』と同様、従来からの野球制度が自然成長的に発達したものが、
プロ野球制度だと捉えている。したがってその理念は、特に日本運動協会によるプロ野球チーム結成を陰で支え、
そのプロ精神の解釈を伝える上で重要な役割を果たしたと考えられる。
B 飛田穂洲と『ファン』
元早稲田大学野球部の選手であり、監督も務めた飛田穂洲は、昭和十一年、朝日新聞紙上で「興行野球と學生野球」と題し、
野球のプロ化に対して批判を述べている。その内容は、
第一に職業野球選手の実力は一流レベルでないから観衆を集めるのは難しいということ、
第二にアメリカ式の見世物野球は日本の野球精神にそぐわないこと、
第三にスポーツの本質は物質的なものにとらわれない潔癖さがなければならないことなどだ。
つまり彼は、日本の精神野球は職業野球のような経済的基盤の上に成立するものでないと主張しているのだ。
ただし彼は、入場料徴収に関しては反対というわけでなく、最小限、各大学野球部費用と連盟費用を賄える程度に制定し、
大学野球の権威を保つべきと述べ、練習に差し支えるほど野球部費が逼迫しては困るが、質素な生活をするほど選手の精神は磨かれ、
チームは強力になると主張している。さらに日本の野球界においては、商売人根性は許されず、
野球を売り物にする思想が日本の野球界の核心に侵入してくるようになっては、日本的野球は消滅するので、
野球を功利的に利用する団体、個人に対しては断固反対したいと述べ、金銭拒否の名誉観を強く主張している。
またこれだけの強い主張ができたのも、早稲田の監督時代、自らの野球理念に基づいて完璧な成績を残した自信があったからと思われる。
飛田の主張するような質素倹約の精神、金銭拒否の名誉観が、野球界全体の遵守すべき理念との立場から、
入場料全廃を主張する雑誌『ファン』が大正六年、吉田興山を主幹に創刊されている。
大正十一年「Baseball has become thoroughly commercialized and is no longer a sport ―野球は最早運動としての品位を失ひ今や全く一個の商品と化し了んぬ―」
というアメリカの言葉を冒頭に引用し、野球界の商品化を排して野球道の樹立を目指すとして、入場料の全廃を主張している。
そして入場料徴収は野球の商品化と考える吉田は、その徴収が学生や紳士の野球にあってあるまじき行為とみなし、
精神野球の根本を汚すものと考えている。さらに彼は、
早稲田大学が日本の商売人と商売球場で試合をした先例を作ったとして同大学の姿勢を非難し、
日本運動協会が商売目的で作った芝浦球場を失敗と決めつけ、その球場が野球界に数々の害毒を及ぼしたと述べている。
また神吉英三も『ファン』において、学生と商売人には厳然たる区別が必要であり、
学生野球がその根本的精神において堕落した理由は金銭的な問題とする立場から入場料を拒否し、
三田・稲門クラブなどの社会人チームも入場料拒否運動を起こして商売野球団と試合をすることがないよう主張している。
C まとめ
以上のように『野球界』『運動界』は、早稲田系の雑誌ということもあって、ゲームを金銭化し、
入場料を徴収することを肯定するという新しい経済的理念をもち、金銭拒否の名誉観は払拭し、精神鍛錬を主張している。
この考え方が、技術のより一層の向上のために、野球専門チームの養成が必要となるとの主張に結びついてくる。
さらにこの主張が実際に、技術的、精神的完成を目的とした日本運動協会チームとして結実していくことになるのだ。
しかしこのような野球関係者の手によるプロ野球チームは、結局確固たる経済的基盤がなく、
また企業の傘下としてプロ野球制度を位置づけていくような経営的発想がなかったがために、消滅してしまった。
そこで今後のプロ野球成立に向けての焦点は、それまでの精神主義に基づいたプロ化の理念を維持させながら、
いかに企業との親和性を見つけだすかという点になってくる。それは言ってみれば、野球制度内的改革派の限界と、
野球制度外変革派の可能性から、お互いがどのように歩み寄っていくかという問題になってくる。
一方『ファン』は、入場料徴収、すなわちゲームの金銭化は、ゲームの商業化と同一として批判し、
野球が発達するためには、まず第一に質素倹約の精神に基づかなければならないとの理念をもっている。
ここにはあくまでも金銭との関わり合いを避けて、アマチュア野球に徹しようという精神がみられる。
また飛田穂州も、そこまで徹底した金銭拒否の信念はないものの、質素倹約に基づく精神野球の完成を目指すという理念に変わりない。
『野球界』『運動界』に支持された日本運動協会、飛田穂州と『ファン』、共に精神野球の発達を目指した両者が、
前者は質素倹約の精神を脱して入場料を肯定する理念をもったがゆえにプロ化への道を歩み、
後者は質素倹約の精神に固執しその品位を守ろうとしたがゆえにアマチュア野球守護者への道を歩み始めたといえる。
3 日本職業野球連盟結成
@ 連盟結成に働いた野球理念
日本初のプロ野球チーム、日本運動協会チームが大正十三年一月二十三日に解散、
それを引き継いだ宝塚協会チームも昭和四年七月三十一日に解散したことは既に述べたが、
野球制度内部の人間たちの理想としたプロ野球チームは、おそらく前者の形態のものだろう。
つまり精神野球を向上させ、アメリカのメジャーリーグに対抗できるような実力を持ったチームを作り上げる目的を持つわけだが、
そこに企業が介入することは許さず、ゲームの金銭化を許容するものの、ゲームそのものを商業化することは希望しない考え方だ。
すなわち経済目的のためにプロ野球を利用し、手段化するという理念はまだ彼らの間で醸成されていなかったとみるべきではなかろうか。
とはいえ、プロ野球を制度として維持していくための資本の重要性や経営の難しさは、
日本運動協会チーム結成に至ったとき十分承知していたはずだ。
しかしそれをより具体的・現実的な経営構想にまで発展させることは結局できなかった。
それよりもむしろ理想的な野球を実現するためには「職業野球団の設立が目今の急務」とする考え方だけが先行してしまったようだ。
このような中昭和六年、野球界全体に多大な影響を及ぼしてきた安部磯雄は、『運動画報』の中でおおよそ次のようなことを述べている。
「多くの人々が今日スポーツの全盛であると唱えているが、今一番人気を博している野球でも決して真の全盛だとはいえない。
なぜならアメリカの職業野球団と比較して、日本の野球熱などはまだ決して全盛とはいえないからだ。
なぜ日本に職業野球団が起こらないかといえば、アメリカの職業野球団ほど多くの観衆が集まらないからだ。
もう少し目が肥えて早稲田と慶應の両派に分かれてひいきするのではなく、選手の技量で見るようになれば、
当然職業野球団が起こり得るだろう。またアメリカのように野球が五日も六日も続けるのと同様にやっていける時代が来なければ、
決して野球が全盛であるとはいえないはずだ。つまりスポーツの盛衰を考えるならば、
学生から職業へ来たる道筋があれば、真の全盛ということができるのだ。」
このように安部は、野球のプロ化を積極的に受け入れ、またそのようなプロ化の方向に向かわなければ、
真の野球発展はないと説いている。彼は、野球を興業化する経済的理念が、野球界の発展、
さらにはスポーツ全体の発展と結びつくものだと考えているわけだ。
そして近い将来、日本においてプロ野球団が勃興することは間違いなく、それが実現すれば当然日米プロ野球団の試合となり、
最終的には日米の覇者同士の大試合に至る可能性があるとの思いを馳せている。
次に昭和十一年二月、大日本職業野球連盟の結成に向けて、
昭和九年の大日本東京野球倶楽部チームの創設に関わった浅沼譽夫・三宅大輔・市岡忠男の野球理念をみていく。
彼らは、浅沼、市岡が早稲田出身、三宅が慶應出身ということもあって、プロ野球に対する考え方も早慶の野球理念を色濃く反映している。
浅沼は、第一に野球の精神、第二に真実のプレー、第三に競技や勝敗に対する観念が必要と述べ、
野球の精神とは、プレー・フェアー、プレー・ハード、プレー・フォア・チームの三つの精神であり、
本当の野球とはこの三つの精神から生まれるものとしている。
さらに、真実のプレーも正しい競技や勝敗に対する考え方も全てこの精神に統合化されるとし、
あらゆるレベルの野球はこの精神の発揮によって真に浄化されると述べている。
三宅も、野球精神を述べる上で浅沼とほぼ同様な見解を示している。
その精神はアメリカのプロフェッショナル・ベースボールの根本精神であり、
アメリカの人々は何人もこの三ヶ条の精神を有するベースボールを見たがるとしている。
さらにアメリカの選手が、給料を多く得んがため、あるいは見物人の人気を得んがためにプレーしているとしても、
学ぶべき精神はあると述べている。したがって、メジャーリーグ野球のベースボール・スピリットを日本の野球家は大いに学ぶべきであり、
その組織精神は、日本の野球が今日よりも更に向上発達進歩するために考慮すべき根本の急務の一つだと主張している。
市岡は、先述した飛田穂洲の朝日新聞紙上でのプロ野球批判に対して次のように答えている。すなわち、プロ野球が目指す目的は、
学生野球ではもはや行き詰まった野球技術と、学生野球が職業化する以前から幾多の弊害を暴露しているその退廃しきった精神を救って、
日本の真の野球を築き上げることとしている。それは具体的には、日本に真の野球道を建設して、
一日も早く強力なチームを結成することによって実現されると述べ、また職業である以上、
経済的に独立維持できるだけの収入を得るために、プロ野球選手は多くの観衆を引きつけるだけの実力と高度な技術、
そして球界の範となるべき人格を併せ持つことを目指していると述べている。
以上、大日本職業野球連盟結成に動いた中心的存在である三人のプロ野球に対する理念は、
メジャーリーグのプロフェッショナル・ベースボールの根本精神を受けて、真の野球の発達を目指すという点を除けば、
従来のプロ化に対する理念とほとんど変わりないと考えられる。
実際に連盟の綱領には、「一、我ガ連盟ハ野球ノ真精神ヲ発揮シ以テ国民精神ノ健全ナル発達ニ協力セン事ヲ期ス
ニ、我ガ連盟ハ「フェア・プレイ」ノ精神ヲ遵守シ模範的試合ノ挙行ヲ期ス
三、我ガ連盟ハ日本野球ノ健全且飛躍的発達ヲ期シ以テ野球世界選手権ノ獲得ヲ期ス」
とあるように、少なくとも建て前の上では彼らの理念が反映されていると考えられる。
またアメリカを模範とする精神野球も、結局は日本の精神野球を完成させることに繋がってくるものとなるはずで、
彼らは野球の専門家を養成し、編成することにより、技術の向上、精神野球の完成、独立採算のとれる経済体制の確立を目指したといえる。
その根本は、日本運動協会チーム結成に向かった野球理念と変わらないが、経済体制の確立については、
その具体的実現にあたり、結果的に外部の資本の介入を受容したことが特徴だ。
しかしこの点に関して三宅は、野球制度内部の人間で会社を作ることは、資本の関係でなかなか実現にいたらなかったが、
読売新聞社社長の正力松太郎が大日本職業野球団結成の計画に賛成し発起人を集める努力をしてくれたと述べた上で、
しかし自分たちのチームが読売新聞社のチームではないと断っている。つまり読売新聞社という会社の傘下として、
その資本の介入を許容した結果、プロ野球チームが結成され、連盟が組織されたのではないと主張しているのだ。
その他、雑誌『野球界』や『ベースボール』においても、プロ野球団組織の結成に関して、
それを促す考え方を述べたものが多く取り上げられている。その内容は、明確なプロとアマの区別がつくことで各々の性格がはっきりし、
これから進むべき道が明らかになることを肯定するもの、職業野球こそが真の野球発達の姿として、
その精神を肯定するものなどであり、さらには「職業野球批判」と題しておきながら、担当した十人の論者の内、
九人が職業野球を肯定、一人が中立という矛盾した面白い記事もある。
いずれにせよ上記二誌がプロ野球結成を促進する勢力になったことは間違いなさそうだ。
A 連盟結成の概要
昭和十一年二月五日に日本職業野球連盟の創立総会が開かれた。
プロ野球は、オーガナイズド・ベースボール(機構化された野球)とも言うべきものであり、
本格的なプロ野球は、7クラブによる日本職業野球連盟結成によって幕を開けたと考えたい。
尚、これと前後して結成されたプロ野球チームは次の通りだ。
・昭和9年12月26日 大日本東京野球倶楽部 東京巨人軍 読売新聞社
・昭和10年12月10日 大阪野球倶楽部 大阪タイガース 阪神電鉄
・昭和11年1月15日 大日本野球連盟名古屋協会 名古屋軍 新愛知新聞社
・昭和11年1月17日 東京野球協会 東京セネタース 西部電鉄
・昭和11年1月23日 大阪阪急野球協会 阪急軍 阪急電鉄
・昭和11年2月15日 大日本野球連盟東京協会 大東京軍 国民新聞社
・昭和11年2月28日 名古屋野球連盟倶楽部 名古屋金鯱軍 名古屋新聞社
上記のように、プロ野球チームを結成した企業は新聞4社、電鉄3社だが、
中でも東京巨人軍の親会社である読売新聞社が、プロ野球成立の先駆的役割を果たしたのは周知の事実だ。
また電鉄会社では、大阪タイガースの親会社である阪神電気鉄道株式会社と、
阪急軍の親会社である京阪急行電鉄株式会社が積極的だったと言われている。
そこで次の4章では読売新聞社を中心に新聞社と野球制度の関係を、
5章では阪神電鉄、阪急電鉄を中心に鉄道会社と野球制度の関係を述べていくことにする。
4 新聞社と野球制度
@ 新聞社と学生野球大会
東京朝日新聞は明治四十四年、「野球と其害毒」という記事によって野球害毒論争を巻き起こした。
その野球が弊害となる理由を次の六つの点に要約した。@多大の時間と場所を要すること。
A熱中しやすく、学業成績に悪影響を及ぼすこと。B粗暴に流れ品性劣悪となること。C一般学生の運動妨害となること。
D応援学生の不規則、不真面目さ。E身体発育不自然をおこし、疾病をおこす実例が多いこと。
この事例を見る限り、野球は「百害あって一利なし」とでも言わんばかりで、断固反対の主張と受け取れる。
しかしその舌の根も渇かぬ内、大正四年には、同系列の大阪朝日新聞社によって第一回全国中等学校優勝大会が開催されている。
この矛盾に対して朝日新聞社は、野球の害毒の事実報道から一歩進んで、自社がよき鞭撻者、よき監視者、よき指導者として、
野球の浄化に努めるために大会を主催すると説いている。
これ以降、大阪朝日新聞社、東京朝日新聞社の両者をはじめとして、
大正十三年の大阪毎日新聞社主催による全国選抜中等学校野球大会など、
各新聞社によって全国規模および地方規模の大会が次々に主催または後援されるようになった。
しかしこのような新聞社側の介入に反発するかのように、例えば大正十三年五月に東京中学野球リーグは、
朝日新聞社が大会参加チームの選手に対して制限を付した件について、それが学校当局の決める問題であるとし、
新聞社が選手の選定に対してまで干渉することに対して満場一致で否認している。
また一方では、同一の全国規模の中学校大会が、夏は朝日主催、春は毎日主催といった事例のように、
その主催、後援の関係は、各新聞社間、あるいは他系列の主催者との主催権の争奪にまで発展していった。
新聞社が野球精神の奨励、高揚に努めるという高尚な理念とはかけ離れた上記のような事態に発展したわけだが、
それは野球によって新聞は紙面を賑わし、読者を惹き付けることができるので、結局その人気を利用しているものだ考えられる。
その経済的な利用価値は大会の規模が大きくなればなるほど高くなるだろうし、記事内容もより豊富なものになるだろう。
だから他の主催権を侵してまで、あるいは野球組織の主体性を無視してまで、野球制度への介入を続けたのだ。
しかしながら野球制度側でも、その組織全体を維持し、規模の拡大する大会を運営していくためには、
新聞社のもつ経済力は不可欠な条件となってくる。したがって妥協点を見いだしつつ、
必然的に野球制度と新聞社が癒着した体制が作り上げられたとも思われる。
そのような状況の中、経営面の飛躍を期する読売新聞社は、野球制度との関連性をより深めていこうとしたのだ。
A 読売新聞社と野球制度
大正十三年、正力松太郎が警視庁警務部長から転じて読売新聞社社長に就任したとき、同社の新聞発行部数は落ち込んでおり、
経営は行き詰まっていた。(九四)そこで正力は、新たな企画を次々に打ち出し、
読者の興味関心を引くことによって売り上げを伸ばそうと努めた。
そこに見られる正力の新聞に対する考え方と意図は、新聞は厳正公平な態度をもって自由に報道することが重要だが、
これを実現するためには経営の独立が必要というものだった。
このような発想のもとで読売新聞社は、当時人気のあったスポーツに注目し始め、
それまで社会部で扱っていたスポーツを、昭和五年九月二十四日以降、運動部という一つの独立した部で扱うようになった。
昭和六年に行われた第一回日米野球大会と、これに続く昭和九年の第二回日米野球大会は、
日本においてプロ野球組織が結成される要因となったと言われているが、その計画は、
読売新聞社運動部部長の市岡忠男とアメリカ在住の経験もあった野球評論家の鈴木惣太郎、
当時野球のルールに関しては第一人者だった慶應義塾商業学校英語科教師の直木松太郎の三人によって、正力に具申された。
実はそれ以前にも、アメリカ側から他の日本の新聞社(報知、大阪毎日、大阪朝日、時事)に試合開催に関する打診はあったのだが、
莫大な保証金が必要なだけに、危険を冒してまで引き受ける社はなかった。その中で正力は、この計画を聞き入れるだけでなく、
日本運動協会の失敗を教訓に、また中等野球大会を主催する朝日新聞や毎日新聞に対抗するためにも、
アメリカの相手をするチームを自社だけで1チーム作るのではなく、他社を含めたリーグ結成まで持っていこうと考えていたようだ。
第一回の来日メンバーは、正力が懇請したベーブ・ルースこそ来なかったが、
その当時アメリカ側が自ら史上最強チームと称するほどの豪華メンバーだった。
中でもシーズン31勝4敗のレフティ・グローブや、シーズン本塁打46本のルー・ゲーリッグのもつ魅力は、非常に大きかったといえる。
また読売新聞社はその人気に便乗する形で紙面に関連記事を頻繁に載せ、野球展覧会を催し、
さらに「よみうり少年新聞」の野球解説を通じて少年層に人気をあおるなど、そのムードの盛り上げに努めた。
したがって第二回のベーブ・ルースを中心とする全米チーム来日の際には、彼らの名前は既に新聞を通じて宣伝されており、
少年の間に浸透していたといわれている。
第一回日米野球大会は事業として予想以上の大成功を収め、計17試合の入場料だけで36万円の収入があったが、
読売新聞社は、試合保証金と試合実費を引いての利益分はすべてアメリカ側に提供するという当初の契約通り、一切金をとらなかった。
また宣伝費が予定の1万5千円を大幅に超え、4万9千円もかかったといわれている。このことからも読売新聞社が、
赤字を覚悟して野球の試合を催すことによって、いかに自社の宣伝を図ろうとしたかが理解できる。その事実は正力自身が、
「今度全米軍を招くのは日米親善に資することと、読売新聞の宣伝をするという二つの目的しかない。」
と断言していることからも明らかだ。したがって第一回日米野球大会は数字上赤字だったが、
アメリカのメジャー・リーグの有名選手がもつ人気を利用した宣伝で、野球の分からない人にまで読売新聞社の偉大さをアピールし、
これが販売の方面にもたらした利益は想像以上に大きかった。
第二回日米野球大会の注目は、なんといっても第一回大会に来日できなかった超大物メジャー・リーガー、ベーブ・ルースの招聘だった。
ルースに対する来日の要請は、実はそれまでにも昭和四年、五年、そして第一回大会の昭和六年と計3回失敗しており、
五年の月日を経て漸く正力の願いが叶ったのだった。
ここには企画をするなら超一流のものでなければ成功しないとする正力の信念が実証されている。
その当時の日米野球制度を通じて最も偉大な影響力を持つルースは、昭和九年十一月二日に入京した。
この時、熱狂的なファンが銀座を埋めつくし、電車やバスが全く立ち往生する状況だった。
このことからも「ベーブ・ルース」という人物が読売新聞社にとっていかに宣伝価値の高いものだったかが推測できる。
結局、試合経費は予算の3万5千円を超過し、読売新聞社が得た収入金9千円も巨人軍創設のために全部投資したが、
世間では読売が大儲けしたように思われていたようだ。このことは野球大会の成功を示すと同時に、
読売の紙数が伸びその名声も確実に上がったことを示しているとも考えられる。
また大日本東京野球倶楽部誕生の際には、侯爵大隈信常を取締役会長に据えたのを筆頭に、
取締役や監視役には、野球には素人ではあるが社会的に名誉と信用がある人物を据えた。
これはプロ野球がまだその当時、野球関係者のみで運営していくことができるほど世間では認められていないことを示しており、
また正力がその実状をよく理解していたと考えられる。
このように読売新聞社という企業組織は、正力の指導体制のもと、野球のもつ魅力に積極的に関与して、
それを利用することによって自社の宣伝と販売部数の増加に努めたといえる。
そして実際に昭和六年度、約22万部だった発行部数は、二回の日米野球大会をはさんだ後の昭和十年には、
約70万部とたった4年で3倍以上の伸びをみせている。読売新聞社は他にも様々な企画などを実施しており、
野球制度への介入が直接どの程度数字に反映されているかは正確に知ることは不可能だが、正力の言葉や世間の評判から、
多少なりとも影響を及ぼしていると考えるのが自然だろう。そして二度の日米野球大会を成功させたことにより、
読売新聞関係者のみならず、日本でもプロ野球を成立させることができるという機運を生み出した点は評価すべきことだろう。
5 鉄道会社と野球制度
@ 阪神電鉄と野球制度
阪神電鉄は、大正三年に鳴尾総合運動場を設置したが、その中に2つの並んだ野球場を大正六年に建設した。
この建設理由は、まず第一にそれまで豊中で行われていた朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会が、
観衆の増加によって手狭になったことがあげられるが、その裏には阪神電鉄と朝日新聞社との連携による事業の推進があったようだ。
すなわち阪神電鉄の沿線で朝日新聞社主催の野球大会を催してもらうかわりに、電鉄側は球場を提供するという合意だ。
そして新聞社側は、選手の滞在費が当時各校自弁だったことから、会期が長引くのを心配し、
電鉄側に二つの球場を造ることを要求したのだ。
こうして阪神電鉄は、全国的規模の野球大会の施設を提供する機会を得て、野球制度に介入していくことになる。
しかしその後大正十二年の第九回大会の準決勝戦で、観客は超満員となり、整理する係員が支えきれなくなって、
何千人という人がグラウンド内になだれ込んで試合の継続が不可能になる事態が発生したため、鳴尾球場の放棄が決定された。
そこで翌年の大会に間に合わせるために甲子園球場が建設される。球場設計の構想はアメリカの球場の模倣により、
女性ファンのために鉄傘を設置したり、観客が増加してもゲームの様子がよく見えるようにスタンドの傾斜を工夫するといった配慮がなされた。
その後も甲子園球場は観客数の増大に伴ってスタンド改築を繰り返し、昭和十一年には10万人の収容力を有するに至った。
また甲子園球場の完成によって、大観衆をどのように早くさばくかという問題に直面し、甲子園線と呼ばれる新しい鉄道が敷設され、
一方球場周辺には、テニスコート、大プールなどの諸施設が造られている。ここには野球だけでなく、
本業である鉄道による収入増はもちろんのこと、様々なスポーツへの介入による多角的な企業戦略の様相がよく現れている。
この企業戦略については、ファンが球場に集まることで鉄道会社がどれだけその運賃により儲けているかを見積もって、
その利潤の多さゆえにに入場料は無料にすべきという意見や、甲子園球場の使用について、
朝日新聞主催の全国中等学校野球大会で主催者側の朝日より阪神の方が儲けていることを指摘し、
自社優先主義の露骨な商売根性を批判する意見もみられる。それだけ阪神電鉄の球場建設を発端とする利潤の追求は、
強烈なものだったと考えられていたようだ。
しかしながらそれでも朝日新聞社が阪神電鉄との事業提携を継続したのは、
朝日側に新聞輸送の点の便を図ることができるという魅力があったからと考えられる。
また甲子園球場は野球大会の開催中には阪神電鉄に利益をもたらすだろうが、それ以外の時には全く使用されておらず、
実際の収益率は周りが思っていたほど高くはなかったようだ。
ところがそこに正力松太郎が、読売新聞社にプロ野球チームを発足させたものの国内に相手チームがいないので、
阪神電鉄にプロチーム結成を打診してきた。球場の利用法に頭を悩ましていた阪神電鉄にとって、
四季を通じて球場を活用できるプロ野球への参加は非常に魅力的であり、昭和十年十二月には大阪タイガースが誕生する。
つまり阪神電鉄は、球場の永続的使用を図り収益を伸ばすために、野球を利用したのだ。
プロ野球チームを結成することは、自らが管理する球場の長期的使用を可能にし、それによる安定した輸送力の確保が、
阪神電鉄により多くの利益をもたらすと考えたのだ。
尚、第4章で述べた日米野球大会が、昭和六年の第一回開催、昭和九年の第二回開催にそれぞれ2度ずつ甲子園球場で行われている。
その際阪神電鉄は読売新聞社からの保証金以外に、計9万円という莫大な利益をあげていたようだ。
この興業の成功も阪神電鉄がプロ野球結成に動いた間接的な動機になっていると考えられる。
A 阪急電鉄と野球制度
阪急電鉄は、第1章で述べたように、社長小林一三が大正十三年日本初のプロ野球チームである日本運動協会チームを引き受けて、
宝塚協会チームとしてプロ野球チームを結成していることからも理解できるように、早い時期からプロ野球との関連を持っていた企業だ。
小林はさらにこれより前の大正四年、結果的に具体的な進展はなかったようだが、
河野安通志・市岡忠男・浅沼誉夫ら後にプロ野球成立に向けて大きな役割を担った人々に対して、
プロ野球の創設に関する相談をしていたようだ。
また宝塚チーム解散後、阪神、南海、京阪、大軌といった関西の有力電鉄に対し電鉄リーグ戦を呼びかけたこともあった。
小林には、鉄道会社が各々の専属グラウンドで毎年春秋二期にリーグ戦を決行すれば、相当な乗客による収入と入場料を得ることができ、
また関西にそのようなプロ野球団ができれば、必ず関東にもできるとの信念があった。
また小林は既存の宝塚球場を活かすためにリーグ結成を計画したのではなく、
球団創立と併行して新しく甲子園球場に対抗できる大球場を建設する計画だった。
しかし小林が昭和十年九月欧米視察中に、球団編成と新球場建設の指令電報を打ったとき、
社内では、既にライバルの阪神電鉄が経営する甲子園球場があった点や、プロ野球の将来性を危ぶむ観点から、
この計画案に反対する意見もあった。このように阪急電鉄は、阪神電鉄のように既に球場を建設した後に、
そこを本拠地とするプロ野球チームを結成するのではなく、周りの出方をうかがってから動くという慎重さも見せていた。
最終的には小林の決断は実行に移され、西宮球場建設に着手し、昭和十一年一月に阪急軍が結成、翌年五月に球場が完成する。
ここには例えリスクを背負っても、阪神電鉄に後れをとるまいとする小林の理念がうかがえるのではないだろうか。
まとめ
この論文は、野球制度に対する経済制度のあり方の分岐点として、プロ野球の成立を捉えていくという視点で展開した。
そして既成の野球制度の内部におけるプロ化に向けての利害状況と、
その制度内部の構成要素を利用して経済制度の下位体系として位置づける外部の利害状況が、複雑に絡みあったことが理解できた。
そこで最後のまとめとして、これらの具体例を個々に取り上げて、
プロ野球成立に動いた諸条件を再度明らかにして述べていくことにしたい。
なぜならこの条件を明らかにすることによって、
戦前においてなぜその時期にその場所でプロ野球が成立し得たのかを解明する要因を総合的に把握することが可能になるからだ。
精神野球の追求による野球制度内の自然成長的な発達は、
結果として学生野球という制度的限界を超越した野球専門選手によるチームの結成とその組織化を目指す理念を発達させた。
このようなプロ化を推進する理念は、外部資本の導入を否定し、
野球関係者たちが自らの理想とする野球を追求した結果生まれた自然成長的な制度としてのプロ野球を目指した考え方といえる。
ただしプロ野球の成立という観点からは、経済的基盤や資本力が不足、
複数のチームによるリーグの結成や観客動員のための配慮といったことがなされず、条件的には恵まれていなかった。
すなわち高尚な理念だけが先行した制度の成立を目指すことになったのだ。
こうして野球ゲームの金銭化を肯定する橋戸信・河野安通志・押川清らによって日本運動協会チームが結成される。
しかし同時期に、日本運動協会チームのような自然成長的に制度化されたプロ野球チームとは全く異なる2つのチーム、
天勝野球団と大毎野球団が結成されている。いずれも野球制度外の経済制度による外部資本の導入を受け入れ、
その経済制度の下位体系として自らのチームを位置づけている。
前者と後者の違いは、後者がセミ・プロチームとしての位置づけにこだわった点だ。
その後、昭和十一年に日本職業野球連盟が結成されるわけだが、
その先駆者として尽力した市岡忠男・浅沼誉夫・三宅大輔らの理念は、精神野球の発達及びその完成を企図したという点では、
先述した橋戸・河野・押川らが目指した野球と同じだが、読売新聞社の企業的意図によってプロ野球制度が制度化されたという点では、
天勝野球団や大毎野球団に通じる理念をも有していたといえる。
つまり自然成長的な制度としてのプロ野球を成立させていく考え方から、
企業の介入による制定的な制度としてのプロ野球を成立させていく考え方へと変化したともいえる。
またこの変化は、経済的な観点からは非合理主義から合理主義への変質と捉えることもできるし、
この当時における野球雑誌等の論調によれば、一般的な趨勢としてもプロ野球を受け入れる基盤が形成されていたと推測できる。
けれども一方で、そのようなプロ化の動向を、質素倹約主義、金銭拒否の名誉の尊重といった視点から拒否する対抗勢力も存在していた。
飛田穂洲がその中心的人物だ。彼らはプロ野球の精神野球主義の強調に対しては、肯定的な評価を示したが、
経済組織による外部資本の導入に関しては断固反対した。この理念の違いによる分岐が、
わが国におけるプロ野球とアマチュア野球を明確に区別する出発点になったと考えられる。
またこの分岐を促進する役割を果たしたのが、昭和七年三月二十八日に施行された文部省訓令第四号
『野球ノ統制並施行ニ関スル件』(通称『野球統制令』)で、
この訓令によりプロ・チームはアマチュア・チームと直接対戦することができなくなった。
そして昭和九年読売新聞社が招聘したアメリカのメジャーリーグ・チームと対戦する際、
アマチュア・チームでない全日本軍チームが結成され、それが主体となって大日本東京野球倶楽部が結成されたのだ。
(ただし試合の行われた神宮球場から、プロ同士の試合では明治天皇の名を汚すとのクレームがつき、
球場に対してはアマチュア・チームと主張していた。)
またもう少し大きな視点から考えると、この時期次第に進展していった産業化の影響という状況が浮かび上がってくる。
すなわち産業化は第三次産業の発達を示すもので、これは野球のプロ化に直接関連のあった新聞社や鉄道会社の発展に直結してくるだ。
激しい競争関係の中にあった新聞社は、記事の材料を大衆の好む娯楽に求めて、販売部数を伸ばす画策をした。
また電鉄会社は、沿線の開発事業を推進することによって輸送力を確保し、収入の安定化を図った。
具体的には、娯楽・遊戯施設等の設置によって、遊覧客の誘致を図ろうとしたのだ。
この新聞社と電鉄会社の理念の相違は、電鉄会社を親会社とするチーム
(大阪タイガース、阪急軍、東京セネタース)がいずれも当初から球場建設に着手しているのに対し、
新聞社を親会社とするチーム(東京巨人軍、名古屋軍、名古屋金鯱軍)が全く専用の球場を持っていなかったという点からも明らかだ。
しかしながらこのようなわが国の企業主導によるプロ野球のあり方は、
それが成立した時点における社会的条件として規定されることには違いなく、もしこのような条件がなかったとしたら、
プロ野球は成立できなかったかもしれないし、あるいはその時期がかなり遅れてしまったかもしれないと考えられる。
ただし現在でも球団が親会社の経営と関連性を持っており、その利害関係から逃れられないという問題点を残してしまう結果となったのだ。